高見君権右衛門墓碣銘(解説)

熊本大学附属図書館 高見家文書 #3020

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九代高見権右衛門武久の墓碣(ぼけつ=墓の印に立てる石)に書いた銘文

宝暦の時代に何と、この熊本藩では、既に個人の才能を伸ばすための政治が行われていたが、が出ていなかった。

未だ成果が出ていなかった。天明・寛政の時代のになって、名だたる偉才が次々と輩出してきた。

諦了公(熊本藩八代藩主細川斉茲公)の時代の終盤に至って、一人の人物を得た。高見権右衛門、

正に君である。この君の諱(いみな=生前の実名)は武久と言い、初めは數衛と言った。その先祖は和田氏で、但馬守という者が、代々

丹波の国の和田城の城主で、その三代目が勝五郎で、諱は重治と言った。丹後に放浪して異郷に住んでいたが、

ついに当細川家に仕えた。後に姓を高見と改め、その九代目が君である。君が考えた事であるが、諱は政久であるが高見家を継ぐには若すぎるので、

郡家の子が、諱は政信と言うが、高見家を継いだ。政信も又君を養子にするが、少年ながら孤独を感じたが、際だって優れた人格を自ら樹立した。

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文化二年には、君の年齢二十一歳にして家督を継ぎ、禄は九百石で6年間

使番(つかいばん)を勤めた。文化九年には、崎陽(長崎)奉行所の留守居を勤め、文化十一年には中小姓頭として昇進。これを積み重ねた結果、用人の職を得た。

文政二年 諦観公(熊本藩九代藩主細川斉樹公)は、幕府より日光東照宮の改修工事の仕事を与えられ、君はこの役目を勤めた。

幕府は、これをねぎらい、幕府を示す文様のある服を賜った。文政九年 細川斎樹公がお亡くなりになられた。 今、新たな熊本藩十代藩主細川斉護公から命令を拝した。

諦了公に仕えた。諦了公は既に老域に達していたが、その英明さはみじんも衰えず、君の才能を深く認知して、藩内外の事を計画する多くの役人の所に君を置いたが、ことごとく君が実行した。文政十二年、

この班を佐敷番頭の上に進め、天保四年には、班が組外に置かれるに至った。 君は機を見るに甚だ鋭く、

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断固として、うまく決断する。様々な議論が入り乱れ、百人の意見が入り乱れても、すなわち君は一言でこれを決断してしまう。

諦了公の考えることと合致することがことに多く、寵愛を受けるようになり、君も又わが身を忘れ渾身的な働きを試みようと努力された。

以前、暇を戴いて家に帰るのが、わずか十日程であった。諦了公が病気になったと聞けば、深夜にはせ参じた。

諦了公もまた、君が必ずはせ参じるだろうと予言する。これが一致することが多く、少なくとも、この類いである。

天保六年十月、諦了公江戸でお亡くなりになる。君は生前の諦了公の命令に従い、 霊柩をお守りして熊本に帰った。大雪によって道中が塞がれることがあった。

君は非常に苦労して、昼夜先んじて進み、行く路を切り開き、ついにうまく事を運んだ。翌年、江戸に向かうよう命じられ、赴いた。今、斉護公は君を呼び寄せて親しく苦労を温くさとした。 先きの諦了公の遣物を戴いたことも、もっともなことだ。既に

加禄として百石を戴いた。この時には、斉護公は既に世継ぎを立てていた。世継ぎの伝承を守る任務を遂行するのは誰が適当かと論するに、

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藩中の人々が、皆な言うことには、高見君しか、いないとして、すでに決まったようなものだとしたが、思った通り、君をもって、世継ぎの指導者となり、

席次を進めて、留守居大頭となった。わからないことを教えて導くこと、わずかに二年。天保11年12月23日に、若君のお供として、その一隊にいたとき、いきなり道路に倒れてしまった。これを助けようとしたが、既に起き上がることは、できなくなっていた。

享年56歳。五つの重要な職歴を経て、細川藩主三代に仕え、国家に尽くす事32年を以て、白金中屋敷の北にある功運寺に葬られた。釈氏諡(しゃくしし=死後に奉る生前の事績への評価に基づく名)は次の通り。

真の龍と言われ、君の容貌は、たくましく優れており、ある思いや計画などを、いつも心の中に持ち、他者より抜きん出て優れていた。公の仕事に就いている時は、役人皆を恵愛して、

自分のための頼み事はせず、情け深い、もてなしは益々盛んで、おごり高ぶる気配は微塵もない。家に居るときは、

無駄な出費はせず、質素な振る舞いで、食事は味にこだわらず、根っからの酒好きで、時には酒に酔い潰れ昏睡する。役人が仕事があると

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仕事があると呼ばれれば、(酒を)吐き出して、起き上がって仕事をるのは、いつもの通りと何ら変わらない。仕事が終われば、もとの通りに寝るので、人々は

飲酒を黙認する。しかしながら、これを何度も繰り返せば、病気になってしまう、ということで、医者は飲酒を禁じた。  殿様はこれを聞いて、試してみる。

ある冬の日に、ふだん着を造り、殿様から、これを戴いて言うことに、暖を取るには、飲酒で十分だと。人々は皆な、これを威勢が良いことだとした。

須佐美氏から嫁をもらう。須佐美氏の家柄は、極めて厳正で、それは手本となるようなものだ。君といえどもども、又

この家柄を心からうやまう。娘の美知を生んで、志方氏の子の武棟を養子に迎えて、跡継ぎとして、この家に迎える。

武棟は、今、小姓頭になっている。まさに、ここにおいて君の墓に、文を媒介として、碑銘を残そうと取り持ち、

その人から離れることで得ることができた。つまり、「亡くなってひそかに」という意味である。 諦了公のいうことには、この人は徳が秀でている、しかも明晰な君

の知識をそのまま受けて、その趣旨を変えずに広く行き渡らす。偶然に巡り会う時から、長い間益々親しさが増し、それは一貫して変わらない。

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これを諦了公の生涯で、君に匹敵するような人物は、何人いるだろうか。君は既に亡くなって、 先の公

の名だたる家来と、宝暦時代の育成で人材が育ち、今や皆亡くなってしまった。どうして、それを

後の世に広め高め伝えずにできようか。必ず伝わる。しかしながら、君が生れてからしばらく、

藩主が、みずから政治を行う状況ではなかった。その頃、勤めに不安をいだいて、頭から離れないことが極めて多く、全く目立たなかった。また、

目立ちたがることは、しなかった。つつしんで、細かく気を配って、その風格を広げる。石に刻みつけた文章の言うことには

これは高氏の先頭、ここに城郭に囲まれた都が城が出来上がった。世を逃れて跡をくらましたり、世に出て栄える時もある。時間を経て、自ら栄える。君は、若人のように生き生きとして、

黎明期に、思いがけず巡りあった。学問の書物に頼らないで、頑張ってもこれまでの手本や規範に合致する事は無く、煩わしさに打ち勝つ。尊敬に値し、簡潔なことだ。

殿様の言うことには,あれこれ。君の言うことには、既に述べたとおり。はやぶさが攻撃するように、丸いものが転がるようだ。企てて、これに到達し、

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展開して、これを広める。爵号と位階が、日が経つにつれて、一生懸命気をつかい尽力して忠義を尽くすように仕向ける。死んで初めて休息できる。君は、ただこれを実践するのみだ。

慰霊は祖先を祀る建造物を守り、慰霊は故郷を離れて祀られる。成熟した後継者が居る。慈しんだ光を明るく照らし、はっきりと君のことを思ふ。石が連なり、玉石が敷き詰められた地に、

この銘文を後学のために提供する。

江戸詰めの肥後藩士、片山介が、この文章を作成した。

天保十五年辰年十二月に出来上がる。

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