江崎彦左衛門先祖之内阿部御つふし被成候節之

稜働之模様等有之候ニ付写出候事

熊本大学附属図書館 高見家文書 #3020

江崎彦左衛門先祖之内阿部御つふし

被成候節之稜働之模様等有之候ニ付

写置候事

高見武棟

頁 1

嘉永元年十一月宮川金右衛門觸組ニて致病死候

江崎九郎兵衛先祖附之写

右者阿部兄弟仕物被仰付候節之次第も

書顕し有之候ニ付写置候事

江崎九郎兵衛

一 先祖江崎彦左衛門儀筑後柳川之者ニ而

御家を望御國へ罷越候処嶋原御陣之砌藪

図書手ニ就罷越於彼地手首尾有之者之由

御側御弓頭高見権右衛門被聞及於原之城

御意有之軽キ浪人等召抱候様ニと頭々江被

頁 2

仰渡候ニ付右権右衛門組へ被召抱度段和田主膳

方を以図書方ニ被申入候処右彦左衛門儀御側

足軽組奈と尓ハ差出申間敷者之儀ニは候得とも

其節迄ハ御側足軽迄ハ歩御小姓並ニ御印を

被為頂戴儀ニ御座候其上彦左衛門儀直々御奉

公奉願居候段図書方より主膳方へ被申越候ニ付被任

其意高見権右衛門組御側足軽ニ被召加候事

一 寛永廿年未二月廿一日阿部権兵衛弟以上四人

御津ぶしニ成候を竹内数馬高見権右衛門組共ニ

被仰付候栖本又七郎も被罷越候左候而権兵衛隣

頁 3

又七郎屋敷より乗込候節者権右衛門又七郎者表向

より相懸り被申し候尤権右衛門組十一人又七郎并家来

共大勢之内先祖彦左衛門儀権右衛門懸り場より

一番ニ乘込申候処路地之土戸稠敷堅メ有之候を

先祖打破り候処門より青貝柄之鑓ニて左之肩先

尓突懸り候を三尺際より引折左ニ持刀を堤其口より

込入候得者権右衛門又七郎両人も同前ニ込入被申候処

先祖左右尓刀鑓を持居候ニ付支ニ成候と被存候哉

其節先祖名九郎兵衛と申候ニ付九郎兵衛働権右衛門

見届候条鑓ハ捨候へと被申候ニ付捨候而入込候處

頁 4

椽(たるき)之上より鐵炮を構候者目中<メアテ>ニ乗セ候故先祖其

者尓椽際迄縋(すがる)向ひ候處鉄炮を抛捨縋入候を

追懸候得共椽其外座上迄歩行不成様ニ拵置

殊ニ火遠懸介候ニ付煙強ク難見分漸々慕入候

内弥兵衛方より権右衛門又七郎と聲を懸候ニ付其場

江打向候へハ弥兵衛兄弟火中ニ縋入候を先祖

慕入候へ共右兄弟ハ罷出候處迄足留メを抜置

火中ニ馳入候節踏候然躰ニて歩行弥以難成住所

存不申候処権右衛門聲ニて九郎兵衛早引取可申由ニ付

権右衛門又七郎一同ニ引退キ申候左候而其場之趣

頁 5

権右衛門組之面々覚之仕(覚書をつくること)を差上候様被仰付候ニ付銘々

仕上候覚之左之通りニ御座候

  高見権右衛門組十一人

     同 討死小頭

    壱人  市川太郎兵衛

残る

 十人之覚書

一 覚書 一通   都甲新右衛門

     但首を取候趣

一 同   一通  江崎九郎兵衛

頁 6

但権右衛門懸り場より一番ニ乗込候始終之趣

  後ニ彦左衛門と改申し候

一 連紙ニ而  一遍  野村甚左衛門

               大久保徳左衛門

               浦 勘之允

               廣中太右衛門

但手負共願候者新右衛門九郎兵衛と除相残

面々一同ニ連紙仕候筈ニ御座候得共相並ニ違

手を負候ニ付四人ハ色紙仕上候

一 同 一通  残ル四人之者共

頁 7

右四通之覚書被仰付高見権右衛門方より

御前へ被差上候処達

尊徳重而御詮議可被仰付旨ニ而何とも何之被仰渡

之趣も無御座候都甲新右衛門儀ハ右討死仕候

市川太郎兵衛跡小頭被仰付候得共常々痛所

御座候而組並御断申上候可処被成御免稲葉内記様

上番被仰付候先祖儀新右衛門跡小頭被仰付候尤

追而ハ如何様共被仰付筋も有之趣ニ候得共先今度

之趣ニ付小頭被仰付旨権右衛門被申渡候新右衛門儀

者常々阮西堂存知之者ニて其物之様子敵方

頁 8

ニ見届候段  御直ニ被申上候由ニて其後歩御使番

ニ被召直候先祖儀茂年罷寄組並御断申上候処

被成御免稲葉内記様上番被仰付候其砌組々御抱

継ハ早速不被仰付候処其節之頭牧五左衛門方より

右之趣被相述候処先祖僅斗之訳ニ被對倅江崎

市右衛門次男江崎甚兵衛三男江崎三助儀追々

御側足軽被召加候得共何レも無程病死仕候

先祖儀御奉公都合四十一年相勤申候処延宝

六年午四月三日病死仕候事

一 二代江崎彦左衛門儀延宝七年小坂半之允組御側足軽

頁 9

御抱継之砌自願之処御相撲改野原新蔵を半之充

組ニ被召加段被仰渡候得共御断申上候ニ付二代彦左衛門

儀先祖彦左衛門儀被召加候趣并阿部御つぶし之

節於彼場所心操之御奉公仕候段先祖頭高見

権右衛門より跡役鎌源太夫小林半大夫へい才(委細)

申継被置候趣半太夫方より被相違候處彦左衛門儀

御側足軽ニ被召加相勤申候已下写之

頁 10

嘉永二年酉二月写之置候事

注) 嘉永二年は十代高見権右衛門武棟が家督を継いでから8年目に当たります。当時50歳ですが、先の稽古附で紹介されているように、剣術、鑓術、射術に長けた人物で阿部兄弟誅伐事件は特別に関心が高かったものと思われ、このような書物を写したものと思われます。

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