肥後先哲偉績原稿(九代武久)
一 高見権右衛門儀和田庄五郎<母方苗家高見を唱改名権右衛門ト>九代目ニ而、大組附踏出御使番、 長崎御留守居兼勤、其後御中小姓頭、御用人、江戸白金邸引除、 諦了院様御逝去後、直ニ白金隅御部屋ニおゐて、 泰樹院様江御附、御同方様御嫡子様御定後、御護役、千五百石高、<御足高六百石> 御留守居大頭同列被仰付、英邁剛毅成性質ニ而、既ニ天保六年之比(ころ)、 白金御近習一手を、銘々評したる発句ニも、毒ハ毒薬ハ薬真 蛇哉と附しハ、則此権右衛門事也、妻ハ須佐美素雄娘ニ而、才発之 唱アリ、舅素雄力量有りと雖、至而気六ヶ敷仁躰ニ而、稍もすれハ 癇積起り、御役をも度々辞す、勃興之砌、孰(いずれ)茂侘言(わびごと)之手段盡果、 唯々困入候折<内諾ゟ使して>、聟権右衛門へ尋問之儀、俄ニ乞遣せは、桜井丁之宅ゟ藪之内 来り、素雄宅定口ゟ権右衛門ト名乗れハ、夫レ聟との見えし迚(とて)、 素雄気色打変り、快々たる躰ニ至る事度々なりしと、 其砌(みぎり)須佐美方嫁ニ而居たりし人の咄を、後年直(ひた)と聞きたり、 如何なる値遇なりしや、是権右衛門の一徳なるらん、同人第一之公平 なる忠勤ハ、従来之御次風と唱し、因循固守いたし来りぬる私見 を破り、 若殿様御近習ニ可被召仕人物、期る(そうなることを予定する)政府重鎮中選 挙を仰可禮しかハ、文武堪能之壮士、或ハ御郡代等の内ゟ被選任 しかハ、実ニ白金詰ハ、斎々堂々たる風儀ニ赴、然レとも何角ト 議論多ク、殊之外繁劇(多忙)ニ移りぬるに、権右衛門少しも不退屈、 一統抑揚筋厚ク心を用、夜も御小屋ニ於て、談合等時を移し、 元来酒徒ニ而半日も不呑間無之、於御殿も権右衛門可服用酒ハ、 御臺所ゟ出し候へと、御内命も被下たる哉ニ伝聞セリ、縦令(たとい) 終夜長飲しても、其儘出仕致し、公務ニかゝるや、何の差障 無之、事を取り捌可、賞誉(しょうよ=褒めたたえる)一條(同じ道理)ハ、同藩小坂半之允なる 仁、躰ハ千石を知行して、一ト意地(根性)有之士ニて、権右衛門とハ気質不 付合、然レとも御供頭可被仰付人柄、此外ニ有之間敷与、態々推 挙して、半之允白金引除詰被仰付たる様子也、是又清廉の 一ヶ条なるらん、惜哉、権右衛門騎馬御供之折、白金北手聖坂辺に 於て急病起り、馬ゟ落て落命せり。 附 権右衛門白金在勤中、大崎御屋敷江、御鷹狩之御供ニ出たり、 若君江ハ谷筋ニ下らせ玉ひて、<御茶屋へハ御目附権右衛門残り>残れる侍に権右衛門来り 貴様ハ一人何して残れる哉と問、此御目附村上久太郎にて、私ハ御側 御道具残れるを御番せりと答、権右衛門再云、貴様ハ学者之様子と、 久太郎左様ニ而ハ無之と辞義ス、<此村上内坪井居住にて、文武藝相嗜兵方組、打山東門下にて代見致し、 <学問ハ講堂世話役いたし、近く時習館訓道(教え導く)を、當分被仰付如代り御断申たる人物也>其後此村上 若殿様御近習ニ被召仕たる時分、或夜半ニ高見使して我小屋へ 招く、何事にやと行て対顔す、いまた酒座の儘也傍ニ一人を縛したり、 是為人御中小姓御鍼料兼子民壽也、高見曰、此坊主世に追従せる ゆへ如斯と、さて又述て云、本日飛脚到着、於御国許和田庄兵衛儀 御使番江転任被仰付たり、如何哉と、村上答、夫ハ結構なる事なりと、高見 云、何か結構なりやと、村上云、御足高百石被下置、座席被進たり、高見云 御人選之御附役放れて、可喜悦事柄ニ無之趣懇々説論有之、 酒など進め被返たりと及承杯如、前条村上ニ向ひ、両度之仕懸、殊ニ兼子、 被縛しハ、不法之為躰なから、酩酊中少敷ハ教誨(きょうかい=教え諭すこと)の含ありてせられたる 事にや、並々の人柄にて仕出遍き業にハ被考不申也、此折柄白金詰 之面々、精務繁雑之儀を下したる、諄(たすける)ニハ御郡代ゟ白金御附役、御近習御次組 脇兼帯(けんたい=兼務)被仰付たる清成八十郎、七ヶ年江戸詰致シ、漸(ようやく)御供ニ而下国せり 御馬役久保正助、稽古申上諄とハ云ながら、是又七ヶ年詰込たり、凡而(すべて)惣裁ハ高見 一人ニ而其魂気感入計也、中風起りたるもうへなり。 |