細川韶邦公

細川 韶邦(ほそかわ よしくに、天保6年6月28日(1835年7月23日)- 明治9年(1876年)10月23日)は、幕末の大名。肥後国熊本藩の第11代藩主。熊本藩細川家12代。 第10代藩主・細川斉護の次男。

母は比企氏。兄に細川慶前、弟に細川護久、津軽承昭、長岡護美。正室は一条忠香の養女(三条実万の娘)。官位は正四位、越中守、左中将。幼名は訓三郎、六之助。初名は護順、慶順。

生涯

嘉永元年(1848年)に兄の慶前が早世したため、父・斉護の嫡子となる。万延元年(1860年)7月12日、斉護の死去により家督を相続する。同年8月21日、左少将に任官する。

元治元年(1864年)4月11日、従四位上に昇進する。同年4月15日、左中将に任官する。 尊皇攘夷には消極的な人物で、文久2年(1862年)に肥後勤王党が分裂したのを契機として、藩論を尊王論に統一した。

慶応2年(1866年)、長州藩の高杉晋作が小倉藩を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦ったが、隣国の薩摩藩などの動向が気にかかることもあって、わずかに戦って敗れた後、即座に撤退している。 慶応4年(1868年)4月23日、新政府側に与する意思を示すため、実名を慶順から韶邦に改めた。

「慶順」は第12代将軍・徳川家慶から偏諱を受けたものであり、それを返上したのである。 明治2年6月17日、版籍奉還にともない熊本藩知事となった。

明治3年(1870年)5月8日、隠居し、弟で養子の護久に家督を譲った。同年5月13日、正四位に昇進する。明治9年(1876年)10月23日、42歳で死去した。

戻る