享保5年12月26日(新暦1721年1月23日)に生まれる。享保17年(1732年)、父・宣紀が死去すると、兄・宗孝が跡を継ぐ。
宣紀の時に既に40万両近い借財を抱え、宗孝の時代には大藩故の過度な出費、宗孝治世のほとんどを襲った凶作などにより収入は激減し、藩財政は転げるように落ち込んでいく。
当時の熊本藩の困窮ぶりは「鍋釜の金気を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい」と揶揄されるほどであった。
重賢も、部屋住み時代には質屋に通ったと言われるほどで、この時の質札を生涯手元に置いておいたという逸話が残っている。
延享4年(1747年)8月15日、江戸城本丸大広間において、兄・宗孝が旗本板倉勝該に背後から襲われるという事件が発生する。家紋の九曜紋が似ていることからの人違いで起きた事件である。
殿中での刃傷や死は理由を問わず御法度であり、すでに死んでいた宗孝は仙台藩主伊達宗村の機転を利かせた指示で、まだ息があったことにして細川屋敷にこっそり運び出され翌日死亡したことにされた。
幸いに細川家にお咎めはなく、宗孝には世嗣がなかったことから、弟の重賢が末期養子とされて家督が回ってくることになった。