細川家の 「九曜星」紋 板倉家の 「九曜巴」紋 変更後の
「細川九曜」紋 延享4年8月15日、月例拝賀式に在府の諸大名が総登城した際、宗孝が大広間脇の厠に立つと、そこで旗本寄合席7000石の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ絶命するという椿事が出来した。
勝該には日頃から狂気の振る舞いがあり、このときも本家筋にあたる安中藩主板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。
ところが細川家の「九曜星」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである。
宗孝にとってはとんだ災難だったが、これは細川家にとっても一大事だった。
31歳になったばかりの宗孝にはまだ世継ぎがおらず、さりとてまだ若いこともあり、養子は立てていなかったのである。殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては肥後54万石細川家は改易必至だった。
この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主伊達宗村である。宗村は機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。
これを受けて家臣たちは、宗孝を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主舎弟の重賢を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た。
この殿中うっかり刃傷事件の報はたちまち江戸市中に広がり、口さがない江戸っ子はさっそくこれを川柳にして
九つの星が十五の月に消え 剣先が九曜にあたる十五日 と詠んでいる。
「剣先」は「刀の先の尖った部分」を「身頃と襟と衽の交わる部分(=剣先)」に引っ掛け、また「九曜」は細川家の「九曜」紋を「供養」に引っ掛けた戯れ歌である。
事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常は裃の両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも1つずつ付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」と呼ばれて、氏素性を明示する際にはよく引き合いに出される例えとなった。