大手門脇の屏へ付申衆
一、米田与七郎 歳十五
一、若林平四郎
一、清水左太郎 市右衛門子休無様 一ニ齋 に付てありきし也、清須にて明日岐阜働と云時加藤左馬殿の肝煎にて被召加、時ニ廿一歳
一、遠山勘右衛門 清須にて五日六日程前の御奉公に出候也、武藤つふらにて面に疵を蒙り候をいたミやかて死す、三百石を領す 松井新太郎者
一、松井新太郎 安秀、後号采女、助左衛門親也 ィ・大手一番ニツク
同
一、明石半四郎 重方、後号助兵衛、五郎兵衛親也 ィ・大手一番ニツク 同
一、松井長助 定勝、後号織部、入道之後正清、角左衛門親也、竹田梅松軒嫡子也、康之名字を遣、母ハ自徳院
康之妻 姉也、竹田永翁ハ弟也 ィ・大手二番ニツク 同
一、坂井喜運 一ニ酒井喜雲、子孫無之 ィ・大手二番ニツク 同
一、一色又七郎 範勝、藤長嫡子なり、後将軍家へ被召出左兵衛尉、寛永六年従五位下、任式部少輔 同
一、湯川八右衛門 同
一、麻生新三郎 後吉右衛門と云、七百石を領す、飯岡豊前聟也、観世又次郎弟子にて鼓を打、親は田辺ニ而働有之、麻生吉右衛門なり、一ニ吉左衛門 同
一、石寺太郎兵衛 米田与七郎者
一、中村市助 同
一、安威弥三郎 同
一、山本又七 一ニ又三と有、考ニ又三は丹後宮津に留守いたし居候て田辺にいつれも引取候時逐電すと米田家記にも有之、又七といふ者又三か子歟、兄弟なとに有之たるか、猶考へし 同
一、山崎清三(ィ・七) 田辺衆
一、多羅尾五助 伊織か若名なるへしとあり 以上市村半右衛門判 同矢蔵の南のひらへ付申衆
一、松井新太郎 出丸より筋かへて左の頭を鉄炮にて打ぬき冑ニ手こふしの入ほと穴あき候也、去により手も筋かへて負 新太郎内
一、佐藤平左衛門 手負子孫断絶 同
一、田口弥助 同
一、粟坂平助 守政、後号市太夫、一ニ助太夫 同
一、中路助十郎 与一郎様衆
一、毛利忠三郎 後号又兵衛、父は毛利和泉と云て若州逸見家ニて千石を領、鑓毛利と云れしとなり、忠三郎嶋原にて討死、男子なく家断絶、忠三郎姉は有吉立行妻なり、立行死後縁寿院といふ
一、入江平内入道真齋 淡路弟、弐百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候、立のほる煙の末はなきものをつきせす落るわかなみだ哉 忠利君より被為拝領候御書于今本家に持伝候、真齋子孫有之哉、不分明以上松井新太郎判詰の門へ入ハ左の矢蔵下ニ付申衆 田辺衆
一、杉生左兵衛 西岡の者此ものを目付石にして何れもの居所を段々にきはしめ給ひしなり、豊前にて八百石、本明智光秀に奉公、山本仙入と云、牢人の後大坂籠城打死、親を山本弥太郎と云 同
一、逸見次右衛門 本は若狭侍の歴々なり 同
一、同 一人壱人入申候 同
一、山口藤左衛門 同
一、植村(ィ・松)弥兵衛 一ニ柘植 同
一、本間少兵衛